

震災前は常磐線が竜田駅の北から南相馬まで延びていました。しかし、路線が汚染度が高い地域を通っているので、その線路は今もまだ町外れのやぶの中で途切れています。

カマクラモリヤスさんは楢葉町の竜田駅で働いています。彼はいわき市出身ですが、楢葉町の復興にとても熱心です。駅構内とその周辺に植えたたくさんの花々を誇らしげに見せてくれました。竜田駅の駐輪所に放置された20台ほどの自転車には、イバラが少しづつ巻き付いてきています。日本では全国どこでも盗難が非常に少なく、これらの自転車も例に漏れず鍵がかけられていません。

町のあちこちで植物がはびこっています。福島県の特産物の柿は町の至る所で見られました。左の写真では、柿の木が覆い茂っている様子が良く分かります。

こちらの男性は日本人ですが、1928年に中国で生まれました。第二次世界大戦後、彼は家族と一緒に日本に帰国しました。今は数週間後に妻と一緒に楢葉町に戻る準備をしており、過去4年間にわたって湿気の被害を多く受けた自宅を修繕しているところです。震災以降、彼は妻と一緒に仮設住宅に住んでおり、2年前には肺がんの手術を受けました。

4年以上前から持ち主を待ち続け、ほこりをかぶったままの日産フィガロ︵1980年代末に2万台限定で生産されたクラッシック・カー︶。

2015年4月以降、タカノユキコさんは小さな移動販売車で楢葉町に働きに戻ってきました。主な客は町に多く集まる建設・解体業者の作業員たちです。彼女の母親は現在も仮設住宅に住んでおり、自宅が修繕されるのを待っています。タカノさんは役場が設置した2軒の食堂︵写真背景︶の前でよくトラックを止めます。食堂の従業員の一部は、町が雇用した外国人︵中国人︶です。

この男性は楢葉町の町議会議員です。彼の自宅の正面には汚染度の低い土が入った何千もの袋が積み上げられています。この土は除染作業で出たものです。彼は「国はしっかり放射能を制御しており、まったく心配をしていないと」言いました。

こちらの男性は、楢葉町の数㎞北に位置していて、現在避難指示区域の境界になっている福島第二原子力発電所で働いています。第二原発が受けた津波の被害は第一原発よりもずっと軽いものでしたが、現在もなお停止したままです。彼は自宅に戻って暮らすことを望んでおり、彼の妻子も同様に帰還を希望しています。しかし、楢葉町に戻る時期についてはまだ相談しており、2016年春に最終的に決定する予定です。政府は彼の家を除染しに来ましたが、単に壁と屋根を洗っただけだそうです。震災発生時には妻子のみが自宅におり、少しのお金だけを手に避難しました。彼の隣に置かれた薪は暖房用のものです。彼は浴室の修理を終えたばかりで、時々週末を過ごしに自宅に戻ります。

楢葉町で生まれたこの男性は、2014年の夏に一時帰宅許可を申請した1人です。彼は、もし私がもう少し早く会いに来てくれていれば、自宅の下方の川で釣った魚をごちそうしたのに、と言いました。家庭菜園で収穫した野菜は役場で検査をしてもらっています。自宅には政府が除染に来ましたが、自分でもう一度除染作業をすることにしました。

この年老いた女性は、2015年4月に町の許可を得て夫と一緒に楢葉町に戻りました。彼女と建具職人の夫は、近所の人や友人はだれも帰って来ないと分かっていましたが、それでも自宅に戻ることを選びました。 友人らの多くは自宅を取り壊しました。夫婦はいわき市内の3軒の仮設住宅を点々としましたが、どこに住んでも疎外感を感じました。義母は震災から2年後に仮設住宅で亡くなりましたが、彼女はその原因はストレスだと思っています。また、彼女の子どもや孫たちは最終的にいわき市に引っ越すことに決めました。現在楢葉町に住んでいる多くの人は、高収入に惹かれてこの町に働きに来た作業員か、新しい環境になじむことができずに戻ってきた住人です。

この小学校では、地震が起こるとすぐに緊急避難が行われ、今もすべてが震災当時のまま残されています。左の写真には、子どもたちの運動靴とかばんが下駄箱に入ったままの様子が見られます。

この男性は旧木戸村にある自宅に戻ってきました。彼は姉妹と新聞を売っています。震災前には1日に800部以上の新聞を売っていましたが、現在は100部以下に落ち込みました。彼の自宅は地震の被害が大きく、約10万ドル(1150万円)かけて修復工事をしなければなりませんでした。

︵左の写真︶の2人は楢葉町役場で働いており。右に写っているのは楢葉町出身のマツモトマサヒロさんです。自宅が津波で流されてしまいましたが、家を建て直すお金がありません。いずれにしても、家族は楢葉町へ戻ることを望んでいないのです。
︵右の写真︶この2人の男性はコミュニティーセンター「ならはみらい」で働いています。同センターは楢葉町の委託を受けて、町に戻った住人たちが社会的なつながりを再び持てるように取り組んでいます。彼らは地域広報の発行や、社会活動として町の美化活動(花の栽培など)の企画を行っています。左のニッタさんは、楢葉町の北西100㎞に位置する都市、郡山に住んでいます。震災前は楢葉町に住んでいましたが、幼い子どもが2人いるので自宅に戻ることは考えていません。

左の写真の夫婦は、かつての自宅を直そうとしました。しかし、損傷があまりにも酷かったので、最終的には家を取り壊して新たに建て直すことに決めました。インタビューをした約40人の中で、学校が再開したらすぐに子どもたちや孫たちと楢葉町に戻ってくると言ったのは彼らだけでした。男性は1階を使って服屋を再開する予定です。右の写真の男性は新しい家を担当したインテリアデザイナーで、彼も楢葉町に住んでいます。彼は、町にたった1軒だけある食堂の隣に画廊を開きました。

夜になっても楢葉町の街灯はほとんど点灯されず、多くの道は闇に包まれています。夜が来ると怖いと漏らす住民もいました。警察は、音楽を流してパトカーの存在を知らせながら定期的にパトロールをしています。音楽はよく遠くから聞こえてきます。

5967人の楢葉町出身の避難者が現在もいわき市に住んでおり、その数は楢葉町の公式人口の約80%を占めています。これらの避難者の42%が上荒川仮設住宅のような13か所の仮設住宅の1つに住んでおり、上荒川のものが最大規模です。他の避難者はアパートで暮らしています。上荒川仮設住宅は、規則的な間隔を空けて並んだ工事現場のようなプレハブ住宅から成っています。これは震災発生後、主に福島県に設置された他の仮設住宅と同じ作りです。居住可能面積は小さく、たいていの場合は避難前に住んでいた家よりもずっと狭いのです。

この14歳の少女は、仮設住宅に住む45人の若者の1人です。彼女と両親は楢葉町に戻るつもりはありません。

つなぐ会のボランティアをしており、服や物資を配るために仮設住宅を訪れます。服や物資の配給は冬の訪れに備えて行われます。これも地域交流の大切な時間です。

分配が行われている間、音楽や歌のミニコンサートが開かれました。

この機会に、ボランティア看護師がその場にいる数人のお年寄りの健康状態をチェックしました。

この88歳の女性にはコミュニティールームで出会い、長時間にわたって話をしました。彼女の息子は福島第二原発で働いています。最近このコミュニティールームでは折り紙のくす玉を作りました(右の写真)。

この写真は、コミュニティールームに集まった女性たちが家に帰っているところです。























震災前は常磐線が竜田駅の北から南相馬まで延びていました。しかし、路線が汚染度が高い地域を通っているので、その線路は今もまだ町外れのやぶの中で途切れています。
カマクラモリヤスさんは楢葉町の竜田駅で働いています。彼はいわき市出身ですが、楢葉町の復興にとても熱心です。駅構内とその周辺に植えたたくさんの花々を誇らしげに見せてくれました。竜田駅の駐輪所に放置された20台ほどの自転車には、イバラが少しづつ巻き付いてきています。日本では全国どこでも盗難が非常に少なく、これらの自転車も例に漏れず鍵がかけられていません。
町のあちこちで植物がはびこっています。福島県の特産物の柿は町の至る所で見られました。左の写真では、柿の木が覆い茂っている様子が良く分かります。
こちらの男性は日本人ですが、1928年に中国で生まれました。第二次世界大戦後、彼は家族と一緒に日本に帰国しました。今は数週間後に妻と一緒に楢葉町に戻る準備をしており、過去4年間にわたって湿気の被害を多く受けた自宅を修繕しているところです。震災以降、彼は妻と一緒に仮設住宅に住んでおり、2年前には肺がんの手術を受けました。
4年以上前から持ち主を待ち続け、ほこりをかぶったままの日産フィガロ︵1980年代末に2万台限定で生産されたクラッシック・カー︶。
2015年4月以降、タカノユキコさんは小さな移動販売車で楢葉町に働きに戻ってきました。主な客は町に多く集まる建設・解体業者の作業員たちです。彼女の母親は現在も仮設住宅に住んでおり、自宅が修繕されるのを待っています。タカノさんは役場が設置した2軒の食堂︵写真背景︶の前でよくトラックを止めます。食堂の従業員の一部は、町が雇用した外国人︵中国人︶です。
この男性は楢葉町の町議会議員です。彼の自宅の正面には汚染度の低い土が入った何千もの袋が積み上げられています。この土は除染作業で出たものです。彼は「国はしっかり放射能を制御しており、まったく心配をしていないと」言いました。
こちらの男性は、楢葉町の数㎞北に位置していて、現在避難指示区域の境界になっている福島第二原子力発電所で働いています。第二原発が受けた津波の被害は第一原発よりもずっと軽いものでしたが、現在もなお停止したままです。彼は自宅に戻って暮らすことを望んでおり、彼の妻子も同様に帰還を希望しています。しかし、楢葉町に戻る時期についてはまだ相談しており、2016年春に最終的に決定する予定です。政府は彼の家を除染しに来ましたが、単に壁と屋根を洗っただけだそうです。震災発生時には妻子のみが自宅におり、少しのお金だけを手に避難しました。彼の隣に置かれた薪は暖房用のものです。彼は浴室の修理を終えたばかりで、時々週末を過ごしに自宅に戻ります。
楢葉町で生まれたこの男性は、2014年の夏に一時帰宅許可を申請した1人です。彼は、もし私がもう少し早く会いに来てくれていれば、自宅の下方の川で釣った魚をごちそうしたのに、と言いました。家庭菜園で収穫した野菜は役場で検査をしてもらっています。自宅には政府が除染に来ましたが、自分でもう一度除染作業をすることにしました。
この年老いた女性は、2015年4月に町の許可を得て夫と一緒に楢葉町に戻りました。彼女と建具職人の夫は、近所の人や友人はだれも帰って来ないと分かっていましたが、それでも自宅に戻ることを選びました。 友人らの多くは自宅を取り壊しました。夫婦はいわき市内の3軒の仮設住宅を点々としましたが、どこに住んでも疎外感を感じました。義母は震災から2年後に仮設住宅で亡くなりましたが、彼女はその原因はストレスだと思っています。また、彼女の子どもや孫たちは最終的にいわき市に引っ越すことに決めました。現在楢葉町に住んでいる多くの人は、高収入に惹かれてこの町に働きに来た作業員か、新しい環境になじむことができずに戻ってきた住人です。
この小学校では、地震が起こるとすぐに緊急避難が行われ、今もすべてが震災当時のまま残されています。左の写真には、子どもたちの運動靴とかばんが下駄箱に入ったままの様子が見られます。
この男性は旧木戸村にある自宅に戻ってきました。彼は姉妹と新聞を売っています。震災前には1日に800部以上の新聞を売っていましたが、現在は100部以下に落ち込みました。彼の自宅は地震の被害が大きく、約10万ドル(1150万円)かけて修復工事をしなければなりませんでした。
︵左の写真︶の2人は楢葉町役場で働いており。右に写っているのは楢葉町出身のマツモトマサヒロさんです。自宅が津波で流されてしまいましたが、家を建て直すお金がありません。いずれにしても、家族は楢葉町へ戻ることを望んでいないのです。
︵右の写真︶この2人の男性はコミュニティーセンター「ならはみらい」で働いています。同センターは楢葉町の委託を受けて、町に戻った住人たちが社会的なつながりを再び持てるように取り組んでいます。彼らは地域広報の発行や、社会活動として町の美化活動(花の栽培など)の企画を行っています。左のニッタさんは、楢葉町の北西100㎞に位置する都市、郡山に住んでいます。震災前は楢葉町に住んでいましたが、幼い子どもが2人いるので自宅に戻ることは考えていません。
左の写真の夫婦は、かつての自宅を直そうとしました。しかし、損傷があまりにも酷かったので、最終的には家を取り壊して新たに建て直すことに決めました。インタビューをした約40人の中で、学校が再開したらすぐに子どもたちや孫たちと楢葉町に戻ってくると言ったのは彼らだけでした。男性は1階を使って服屋を再開する予定です。右の写真の男性は新しい家を担当したインテリアデザイナーで、彼も楢葉町に住んでいます。彼は、町にたった1軒だけある食堂の隣に画廊を開きました。
夜になっても楢葉町の街灯はほとんど点灯されず、多くの道は闇に包まれています。夜が来ると怖いと漏らす住民もいました。警察は、音楽を流してパトカーの存在を知らせながら定期的にパトロールをしています。音楽はよく遠くから聞こえてきます。
5967人の楢葉町出身の避難者が現在もいわき市に住んでおり、その数は楢葉町の公式人口の約80%を占めています。これらの避難者の42%が上荒川仮設住宅のような13か所の仮設住宅の1つに住んでおり、上荒川のものが最大規模です。他の避難者はアパートで暮らしています。上荒川仮設住宅は、規則的な間隔を空けて並んだ工事現場のようなプレハブ住宅から成っています。これは震災発生後、主に福島県に設置された他の仮設住宅と同じ作りです。居住可能面積は小さく、たいていの場合は避難前に住んでいた家よりもずっと狭いのです。
この14歳の少女は、仮設住宅に住む45人の若者の1人です。彼女と両親は楢葉町に戻るつもりはありません。
つなぐ会のボランティアをしており、服や物資を配るために仮設住宅を訪れます。服や物資の配給は冬の訪れに備えて行われます。これも地域交流の大切な時間です。
分配が行われている間、音楽や歌のミニコンサートが開かれました。
この機会に、ボランティア看護師がその場にいる数人のお年寄りの健康状態をチェックしました。
この88歳の女性にはコミュニティールームで出会い、長時間にわたって話をしました。彼女の息子は福島第二原発で働いています。最近このコミュニティールームでは折り紙のくす玉を作りました(右の写真)。
この写真は、コミュニティールームに集まった女性たちが家に帰っているところです。